ヴェネツィア-パドヴァ間を流れるブレンタ川(リヴィエラ・デル・ブレンタ)はヴェネツィア共和国の貴族の美しいヴィッラ(邸宅)の建ち並ぶ区域として有名。この川を小さい船に乗って一日をかけてのクルーズが毎年3月から10月まで催行されている。
「イル・ブルキエッロ」という名は実は13世紀の時代から存在していたもの。ブルキエッロの言葉の由来はバルカ(=小さな船)から来るもので、ヴィッラを訪れる貴族用に美しく装飾されたバルカを陸地を走らせる馬に長い手綱をつけて引っ張って走らせた、という。
ヴェネツィアの本島に住居を構える貴族が、避暑を目的とした別邸を持ったということで、ヴェネト州内には、多くの美しい邸宅が現存している。そのなかでもこのブレンタ川流域は、景観の美しさもあり、特に好まれていた地域。その流域の美しさを保つためにも、庶民は川沿いへの土地の購入が禁止されたり、建物の構造の指示などもヴェネツィア政府からおふれが出ていたほどだった。
さて、私が参加したこの日は、ヴェネツィア発便の日。パドヴァとヴェネツィアを日替わりでスタート地点とするので、終着点も毎日日替わり。なので、この日はヴェネツィア発、パドヴァ着の日。
サンマルコ湾を出発して、岸から離れ、水深の深い部分の湾にまで行ったところで加速、そのまま湾に流れ込む川の河口へと入っていく。車や列車で出入りする陸地とはうってかわった、ここは緑豊かなのどか~な風景。周囲は畑が広がり、一気に田園風景。





そして、河口に入ってしばらくすると第1番目の水門に。

パドヴァとヴェネツィアの間には約10mの海抜差があり、この高低差のためにできる強い川の流れをいくつかの水門を造ることで、水の流れを穏やかにし、船の行き来をスムーズにさせる、ヴェネツィア人の仕事が現在もここに見られる。
上流側の閉まった門の前に到着し、一度船は止まる。下流側の門が閉まり、船は閉ざされた空間に。そこに水が流れこみ、水位を上げることで船を持ちあげ、上流側と同位になったところで上流側の門が開き、船が発進する。




水がだんだんと増えていく様子を船の上から見ることができて、門の仕組みがしっかりと理解できる。
そしてヴェネツィアの大工業地帯、マルゲーラ地区を通り、

着いた先は、ヴィッラ・フォスカリ。ここで下船。

ここはヴェネトの建築を語る上での最重要人物ともされる、アンドレア・パッラーディオの手による建物だ。当時の貴族たちの間では、パッラーディオに建物を注文し、美しい邸宅を持つことが一種のステイタスであった。
他の全ての邸宅に共通することだが、建物正面、主玄関は川に向かって造られている。川面に映る建物の美しさをも計算されて設計されていた。
こちらが川側、正面。大理石でつくられた豪華建築のように見えるが、大理石はほんのごく一部で、レンガなどに色を塗ったものが大部分を占める。

そしてこちらが陸地側。もちろん十分に美しい。

そして、この当時の邸宅の特徴でもある、住居&農業施設のミックス型。陸地での生活には、広い栽培地を持ち農産物の生産もしてヴェネツィアへ運んだともされている。この農業施設の部分はバルケッサと呼ばれ、いわゆる農作業小屋みたいなもの。


このヴィッラ・フォスカリは別名マルコンテンタとも言われ、この地区の地名にもなっている。イタリア語的には非常に変な名前で「マル=悪い」、「コンテンタ=喜ぶ、満足する」という二つの言葉のくっついたもの。
つまりは満足していない、ということなのだが、同邸宅の持ち主の奥様がこの家に住むのが嫌で嫌でたまらなくて、毎日溜息をつきながら部屋に閉じこもっていた、とされるから。別荘ではなく、年間を通して住居としていた(居住を強要されていた)彼女にとっては、ほぼ毎日霧のかかった風景に、田舎に住まわされて孤立感を覚えたであろう。
主人は彼女をここに閉じ込めたのは、彼女のその美しさがゆえのジェラシーからだった、と言われているので、自由の効かない結婚生活を憂鬱に過ごしていたのか。まあ、彼が思うほど、自分の妻はそれほどの美貌の持ち主だったのか、というのは…。肖像画もあるので、実際に目で確かめてみましょう。
それから、いくつかの水門、邸宅を眺めながら船は先へ先へと。




これは途中寄った邸宅の庭にある18-19世紀の自然冷蔵庫。温度が安定している穴ぐらの中に食品を保管していた場所。

現在残るこれらの邸宅は、個人所有のもの、州や市の管理のもと、もしくはホテルやレストランなどの施設に使用されているもの、そして、手つかずにそのまま放置されているものなど。修復及び維持には費用がかかるため、そのまま朽ちていく建物も少なくはない。
途中、お昼時になると、昼食タイム。船はレストランの入口に横づけされ、そのまま店内へ。お決まりメニューなので、あまり期待はしていなかったが、悪くない。
前菜の、スキエ(川エビみたいな小さなエビ)のフリットとポレンタ。

エビのソースのニョッキ。

そして、スズキと車エビのグリル。

ドルチェもつく。もちろん、水とワインもあるので、かなり満足。

昼食後は再乗船して、しばらくはゆったりと、それでも次々と続く邸宅や橋、水門を通りながら船は進む。お昼の後はちょっと眠くなるのは皆一緒。船上はなんだかモワ~ンとした感じになっていた。
橋、といえば、川の両岸を渡す橋も船が通過するたびに開く必要がある。船が橋に近づくと、道路は赤信号。車の列はどんどん長くなるのを横眼に船はあくまでマイペース。

橋の開閉は自動開閉のところもあるが、人力にての開閉の箇所も残る。各所水門の開閉及び橋の開閉は船より先廻りして車で同ルートをいくおじさん達に委ねられている。
船の上部にあたる、高い位置に造られた橋もいくつかあるが、ブルキエッロの船の高さと橋の下部がぎりぎりの所があったりして、そんなときは上部席に座る人たちは皆低くかがみこむ必要あり。風景を進行方向と反対側に見ている人などが、橋の接近に気付かずに、周囲に大声で注意を促されてびっくりして皆で大笑い、なんて和気あいあいムードも出てきたりして、楽しい。

パドヴァに近づいてくるに従い、川は平野部へと。ブレンタ川ツアーとは言ったが、実際にはこの川はブレンタ川主流ではなくて、支流。だから、川というフィウメfiumeという言葉をあてるのではなく、この水の流れは、リヴィエラrivieraとかナヴィリオnaviglioとかいうのが使われている。
川の性格上、氾濫などが起こりやすく、平野部には被害が出ていたため、水の流れを分散させてきた結果だ。ヴェネツィアを通ってアドリア海に注ぎ込む川の流れはいくつかあるのだが、それらのほとんどがヴェネツィア人によって、整備されてきている。もちろん、全てがヴェネツィアの時代になされたものではないとしても、それは中世の時代からの技術がそのまま現代へも通じていることだといえるもの。
いくつかの要所に、川を派流へと流れを変えた分岐点も見て解る。

さて、このツアー最後の邸宅の見物としては、ヴィッラ・ピッサーニ。

168もの部屋数を持つ、19世紀初頭の邸宅で、現在国立博物館となっている。モデナ公、ナポレオンなどもここに宿をとったとされてもいる。ナポレオンの寝室も公開されていて、決して横になって眠ることがなかったとされる、頭側にクッションが高く積まれたベットも展示されていたりする。
さてさて、朝9時にヴェネツィアを出発したこのクルーズ、夕方5時にパドヴァに到着。終日解説をしてくれたガイドさんは各国言語を流暢に話す。おまけに終日しゃべりっぱなし。
彼女のおかげで、いろいろなことも発見、ヴェネツィア人の水に対する仕事ぶり、そして貴族たちの生活及び現在に至る所有者の経緯などなど、大変興味深い一日。…でも、内容濃いので、パドヴァに着いたときには結構ぐったり。それでも見なれた風景での降船にて、ホッ。。。
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